シェアハウスの流行は、交流と連帯と絆に目覚めたの?
東日本大震災の2011年頃から、シェアハウスというレンタル住宅が流行しました。
親兄弟や親族とでなく、赤の他人といっしょに住む流行です。
報道では歓迎してるみたいだったし
よく聞いた論説は、こんな感じでした。
「他人との距離が遠くなり疎外感が起きがちな現代において、若者たちがキズナを求めて他人とのコミュニケーションを始めた」。
「自分の殻に閉じこもるのをやめて、積極的に仲間をつくり連帯して暮らしをつくりあげる、新たな社会活動のきざしがみえてきた」。
「家財道具に執着せず、価値観の違う人たちと心を開き合い、心の充足を求め始めた若者たちの、21世紀の新しい生き方が頼もしい」。
「断捨離のミニマリストが明日の現代文化を創造する力を、高く評価する」。
「無駄なぜいたくに背を向け、真の幸福を見つける日までエールを送ろう」。
若者からの搾取を、美談で言いくるめた論点ずらし
シェアハウスは、若者の斬新な生き方だって?。
違うでしょ。シェアハウスは家賃を割り勘にして安くする目的でしょ。
ごもっとも
原型は、異国の高い物価に対抗した、ルームシェアやハウスシェアです。
家を二人で借りると、家賃が半額になります。一人一戸を借りるお金がないから、半分こして出費を下げる。
それを長屋形式に応用したのは、日本の貧困化が原因です。所得減で、住む家に困る人が続出しているからです。当然、高所得者や富裕層はシェアハウスにあこがれないし。
そんな道理だから、シェアハウスを豪華に建てて広いラウンジを設けるなど、付加価値をつけて家賃を上げたら、入居する動機に逆らっています。
そんなおしゃれなシェアハウスを本当に建てた会社があり、早くに倒産したはず。
高級リヤカーや絹の雑巾と同じで、論理矛盾した商品が高級シェアハウスです。
欲しい物はもうない、その心理はイソップのぶどう
シェアハウスに入る人は、そんなに従順な生き方でよいのか、の問題もあります。
不況が長引くと人は気持ちが落ち込み、起きている事態に向き合えなくなります。
社会の歪みどおりに、自分が歪んでもよいのかという問題。
経済低調で気持ちが屈折し、事態を正面から見られない心理現象のひとつに、「世の中に欲しい物がない」があります。
書店がつぶれる話では、「もう読みたい本なんかないから」。
音楽ソフトが売れていないと、「聞きたい音楽も特にないから」。
車が売れなくなると、「乗りたい車が見当たらないし」。
長年続いた映画館がつぶれたら、「見たい映画が全然ないよね」。
本当にそうなの?
単純に買う金が惜しいからです。買わない理由を後からつけていませんか。
たとえばほとんどの人は、買いたいスーパーカーなんてありません。望んでも絶対に買えないサイフ事情で、気持ちをセーブするのです。望みを叫べばみじめだし。
その気持ちの押さえ込みが、8千万円の車どころか、1500円の書籍や映画にも起きたと考えられないでしょうか。
若者はどう反抗すべきか?
世の仕組みを自分なりに調べ、意見することも大事でしょう。選挙に行かないから非優先扱いにされるわけで、行っても貧困を促進する党に投票することが多い。
誰が日本の貧困化を押し進め、誰が食い止めようとしているかは、実ははっきり顔ぶれが分かれています。見分ける力は絶対にいりますね。
せっかくだから見分け方も教えて
がんばった人のみ報われる、弱肉強食のカリスマは日本人のキャラと異なります。その種の人たちが活躍するにつれ、日本経済はとことん落ちていますよね。
がんばれない高齢者や障がい者を切り捨てる選民思想は、がんばった若者の給与や報酬も必ず理由をつけて減らしてきます。若者の釣り方を知り、肥やしにする悪人です。