30 バブルのスキーヤーの大移動

1 平成バブルのブームが、スノーボードではなく、スキーだったのはなぜか?

ボードの歴史が新しいからです。私が初めてスノーボードの実物を見たのは1986年で、オフピステにポツンと一人でした。歴史の順を追うと、旧式スキー最後のブーム(86~95年)の続編として、スノーボード初のブーム(97年~)が起きています。実はスキーに新規参入したもののパラレル前にやめた撤退組が、スノーボードブームの中心に大勢つめています。夢のスキーに失望して捨てて、しかしゲレンデ行きはあきらめなかった熱意が、スノーボードへの集団引っ越しとなって、入れ替わってボードがブレイクしました。スキーの失敗が、ボードの成功に結びついています。

2 スキーをかじった人は、どの程度スノーボードへ転向しているのか?

例えば佐賀県のスキー場では、オープンした89-90シーズンにパラレルスキーヤーは平均20人に1人程度でした。それから5年を経たスキーブーム最終頃の94-95シーズンも同程度で、つまり常連客も5年で上達していない様子でした。カッコよく滑って目立ったスキーヤーは、たずねると雪国出身や関東の大学からのUターン組でした。ところが「空白の3年」を経た98年の新聞写真では、ゲレンデ遠景に20人写れば20人ともスノーボードでした。

3 ゲレンデ写真が、スキー10割からボード10割へと入れ替わったのは、何を意味するのか?

スキーが嫌われたという以外ありません。その理由はただひとつ、上達しなかったからです。写真に写った中には、スキーからの転向組もかなり含まれるはず。スキー場のオープン当初、スキーに笑顔で通い、幸せに満ちていたかに見えた地元の若者客も、内心はこの難しいスポーツ、厳密には難しい旧式ずんどうスキーにメゲていたのでしょう。その苦悩が群集心理となって、せきを切ったようにスノーボードへの大移動が起きたと考えられます。

4 そのスキー場は、オープン当初は地元民にどう歓迎されたのか?

リフトの隣に誰が来ようと、同じ話ばかりしました。「九州の身近な場所にスキー場ができて、いい時代になりました」「ホント、思ったよりコースは長いし、人工雪も思ったよりいいもので」「少々コース幅が狭いのが惜しいですね」「いやいや、スキー場があるだけでありがたくて、ぜいたくは言えません」。客は佐賀県と福岡県がほぼ同じ割合で、もちろんスキーヤーが10割です。

5 せっかく九州にスキー場ができても、地元の新参者が上達しなかったのはなぜか?

最大の理由は、指導教育の仕組みがなかったからです。喜んで通った初心者も、毎回毎回が「お試し」の域を出ずに孤立し、ステップアップを体感できずに、ストレスがたまっていたと思います。教育不足がよく現れていたのがストックの握り方で、ストラップの持ち方を間違っている人がゲレンデのそこかしこに目立ちました。

6 有料の教習はあったのだから、利用すればよかったのに?

インストラクターがいるだけではなく、「指導教育システム」の工夫が重要だったと思います。ビギナーは娯楽施設のつもりで、リフトも観覧車に乗る感覚で、リフト券とはまた別に教習料を払う高負担に慣れていません。指導を受けるのが普通なのか、受けないのが普通なのかも、客には見当がつきません。そうした南国の感覚に対し、雪国の常識を持ってくるだけでは足りなかったのです。

7 そのスキー場が何をしていれば、スキーの全滅を防げたのか?

無料講習システムと児童スキークラブを結成し、パラレルの壁の向こうに第一世代を送り出すことが先決でした。たくさんの地元ビギナーと、わずかな雪国育ちとの技量差を「中堅」が埋めないと、狭いスキー場の雰囲気に異様なコントラストが生じます。中堅がいないゲレンデでは、雪国育ちの華麗なパフォーマンスは引き立つのを通り越して、差のありすぎる九州人に対して、鼻に付くイヤミにさえ映ったのです。

8 市街に近いので、パラレルに必須の32日に誰もがすぐ届くはずだが?

別世界が開ける32日のキーナンバーは、それなりの好条件が前提です。ところが、幅が狭くて自由に動けないゲレンデ、少ない雪の下には薬剤で固めたアイスバーン、長時間のリフト待ちでわずかな滑走回数、夕方5時を過ぎてもスキーヤーが減るどころか増えて、照明下で昼間よりも混雑・・・こんな悪条件です。しかも教習を受けず、我流で時間を空費する状態でした。

9 悪条件のトップは、旧式のずんどうスキーだったわけか?

時代はもちろん「曲がれない、止まれない」絶望的な旧式スキーの上に、レンタルスキーを借りると、最長が170センチと短かったり、保管が悪くて板がゆがんでいたりしました。雪国の廃棄前のレンタルを払い下げたと思われます。夢の高級スポーツにやっと触れた地元の初心者は、おそらく50日以上通っても進歩が見えなかったと考えられます。

10 九州ともなれば、雪不足の方は大丈夫だったのか?

標高1000メートルとはいえ佐賀の春はやはり早く、ある寒冷年の3月20日に行くとポカポカ陽気でした。ゲレンデは土が透けた小道状の雪のみで、面積のほとんどが濡れた土。長靴の職員がゲレンデに散らばって、スコップで集めて雪道を維持する中を、スキーヤーが次々と降りて来ます。旧式スキーだと止まれないので、初級者たちは次々と転倒して、ズブズブとスローモーションのように、溶けたチョコレート状の海に足や頭からめり込んでいきます。さっきリフトの隣で話した人がドロドロに染まった様子を見て、問題意識さえ感じました。

11 そうするうちに、スノーボードが登場したわけか?

全く違う道具が現れると、スキーで積もり積もった欲求不満が、一気に激しい嫌悪に転じたのでしょう。1人のボーダーも写っていない写真から、1人のスキーヤーも写っていない写真へと、新聞夕刊の第一面の完全な逆転が、スキー場建設から8年で起きたのです。実に、スキーが全く根付かなかった珍しいスキー場になってしまいました。

12 日本ではスキー場の客のうち、スノーボードは半数に届くほど増えているらしいが?

まだ半々とすれば、少し意外です。というのは、九州から本州のスキー場へ向かう人の9割がボードで、佐賀県のスキー場ではほぼ10割達成です。広島でも7割はボードでしょう。そうした南の県のボード優勢を見た上で、全国平均ではまだスキーが多数派と聞くと、へえそうなのかと不思議に感じます。いくら大都市圏の客が多いとしても、やはり北の県では地元スキーヤーの割合が高くて、全国平均値を押し上げているのでしょう。

13 なぜ北国では、スノーボーダーよりスキーヤーが多いのか?

バブルのブーム以前に、すでにパラレルスキーヤーが多かったからでしょう。北の県ではずっと前からスキー人口が多く、レベルも急斜面ショートターン、すなわちコブをスイスイ滑れる人が標準的でした。「パラレルの壁を越えればスキーを生涯続ける」という法則は、北国でも十分に当てはまり、スキーを嫌って捨てた上でボードへ流れる転向者が全体に占める割合が小さいのです。

14 北国でも、ボード人口はけっこう多いようだが?

北の県の特徴として、スキーを捨てずにボードに手を広げた併用型が多いようです。ボーダーたちは、カービングスキーも持っていたりします。逆に南の県では、少ない旧式スキー体験に終止符を打ってボードに転向し、スキーを完全放棄したケースばかりで、それ以外は私は会ったことがありません。しかもスキーから転向したスノーボーダーのうち、カービングスキーに一度でも触れたことのある人は、私の調べた範囲では1人もいませんでした。

15 もしカービングスキーが今も生まれていなければ、どうなっているだろうか?

全体的には、ほとんど変化がないと思います。なぜなら、スキー体験者の大多数はカービングスキーに触れずに去っており、今も「簡単に滑れるスキー板」の存在を知らないからです。知らなければ、ないも同然です。カービングスキーの登場は10年遅れただけですが、この10年は「大勢の国民がスキーに殺到した」特別な10年だったので、結果的に「大勢の国民がスキーを見損なった」特別な10年でもあるのです。