現代美術とCGアートの謎と疑問に答えるQ&A もくじ
電子美術館のQ&A

130 表現の不自由とダダ運動タイプの自由

二十一世紀国際地方都市美術文化創造育成活性化研究会
2019/8/15

――『表現の不自由展』の事件で、日本中から続々と意見が出てきましたが?

『あいちトリエンナーレ2019』のタイトル『表現の不自由展』は、過去にギャラリーや美術館で展示を断られた作品を一堂に集めた、楽しそうな展示です。奇抜な抽象絵画や抽象彫刻も集合し、現代のゴッホやピカソにも光が当たるなら、期待できそうです。しかし8月から75日開く予定が、3日で中止になりました。

――中止したのは、批判が殺到したからですよね?

問題の作品を確認すると、昭和天皇の顔をコラージュした版画を燃やした短編映画、太平洋戦争(大東亜戦争)の零式艦上戦闘機の特攻隊が遺した寄せ書きにつけた間抜けタイトル、日韓政争の性奴隷の人物彫刻などがあるそうです。批判が集まった理由は、日本国をイメージダウンさせて国民の心を傷つけるフェイクなイベントだと、大勢が感じたからでしょう。僕らをヘイトするプロパガンダだと感じた日本人が憤慨し、主催側を脅迫する者も出ました。

――国際的な背景は考えられますか?

もちろんあの国際条約の相手方の破棄です。日韓基本条約(1965年)と慰安婦問題日韓合意(2015年)。国のトップ同士で合意して調印された約束が、相手国内の政権交代で反故にされ、話が蒸し返されて振り出しに戻った問題です。大統領が約束を破棄した動機は、支持率維持と朝鮮戦争の進展です。重要点はソヴィエト社会主義連邦共和国の共産主義コミンテルンとアメリカ合衆国の力とで、北緯38度線で朝鮮半島が分断中ということ。北部の朝鮮民主主義人民共和国が、南部の大韓民国を吸収する算段とされます。徴用工やレーダー照射問題とは別名目で、日本が相手国への輸出優遇措置を外したのが直前の出来事。

――国家間の工作活動に、裏づけはありますか?

日本を邪悪な国家として国際社会に認識させ、評判と信用を落として、輸出製品の売れ行きも低迷させて市場を奪う、政府レベルの計画が表面化したのはかなり前です。近年は「告げ口外交」などもありました。世界中にあるのに日本にないひとつは、スパイ関連法です。ジャパン・ディスカウントのロビー活動の上陸説もありますが、裏を取れる専門家のみわかるでしょう。アート並みにマイナーで。

――税金を注入した展示だから、まずかったのですか?

関係ありません。スポーツの場では、政治的主張は場合によらず悪です。しかしそれをアートに置き換えた場合の悪と、政治をテーマにしたアート作品は、分離が困難です。自国をたたえ、他国をあなどるモチーフのアートも歴史的に多いし、戦争モチーフなら私にもあります。

――作品の展示を拒否されるのは、よくあることですか?

保守アートは愛され、革新アートは嫌われます。一例として私の場合、人類の騒動を舞台演目とした、悲喜劇的ドタバタ絵図です。世界のどの美術とも親類でなく、リベラルな者でも容認しにくい作風です。西洋美術由来でない異端だから、展示会場はノーの返事になりがち。美術を心得た人が怒り出す絵でもあり。このように作品への反感は美学的な嫌悪が大半です。だから国内の展示不許可は、抽象画を市民に見せない判断が実に多い。東京大学の生協で絵を捨てた事故もやはり抽象画でした。絵が目に入っても、抽象だから頭の中を抜けて粗大ゴミに見えたわけで。

――そうして排除されたエポック作品が、後に復活登場すれば興味もわきますね?

ただ作者側は、排除されて当然だと心得ています。変なものが出てきた時に抵抗なくたたえる人は、実際にはいないし。送り手が受け手をしばる権利もないわけで。抵抗されたことで逆襲して、狭量だ、差別だ、間違った社会だと、創造側が市民を責めたりはしないもので。ピカソは自分をわからない人に怒りませんでした。そもそもわかるように作れば、既成の概念を出ない創造失格なのだし。

――既成の概念を超えてナンボが、創造の世界だと聞きましたが?

根拠は美術の傑作の歴史です。大昔から人類は新様式と意匠を開拓し続けてきました。その新様式が今回の事件の根底にあるのです。そもそも現代アートは2種類あります。私の仮説で、20世紀以降のアートに限り「三大画家タイプ」と「ダダ運動タイプ」の2種類に分かれます。2種類を混ぜてしまうと、話の焦点がぶれて理解できなくなります。『表現の不自由展』はダダ運動タイプだと知れば、そういうことなのかと解けてくるでしょう。

――現代アートの2種類は、何が違いましたか?

既成の概念の超え方です。どう超えるかが全く違うのです。三大画家タイプは造形、つまり形と色の破天荒で超えます。一方のダダ運動タイプは造形以外、つまり何か別の破天荒で超えます。その時、三大画家タイプの特徴に引っかけた、奇抜なトンチを使うのがダダ運動タイプです。

――芸術作品の特徴とは、例えば何がありましたか?

一例ですが「名作は不快である」という、三大画家タイプの傑作に共通する特徴があります。例えばピカソが描いた女性たちの顔は、優しげな美女ではありません。「何だこの顔は?」「変なの」という異質なものです。既成の概念を超えた変顔造形は、見る人たちに不快感をもたらし、これが歴史的な芸術作品の典型的な特徴です。

――そのピカソの特徴に引っかけたトンチとは、具体的にはどんなものですか?

例えばガラスの水槽にミミズをたくさん入れて、展覧会場で展示します。あるいは、会場の床にミミズをたくさんまき散らします。ミミズがうじゃうじゃはい回る、動的な現代アートが誕生します。ミミズの動きは奥が深いぞと。

――見た人は、絶対に不快な気持ちになりますよね?

すると話をこう結びます。「深いから不快なのだ」「ピカソの絵も不快で、ミミズと同じだ」「ミミズはピカソに匹敵するということだ」「芸術はミミズだ」「表現の自由だ」。

――でもミミズが芸術なわけはなく、美術品だとは全然感じませんが?

その言い方は無力です。美術でないミミズを美術に変えた発想の転換が世界初の創造だ。創造をたたえるべしという論理が通るからです。「ピカソの絵は許されて、ミミズが許されないのは検閲だ、差別だ、自由の侵害だ」と言われると、あいこにせざるを得ません。ミミズも芸術に加えるしかないでしょう。現にやってウケている。

――論理飛躍した、無茶な理屈としか思えませんが?

その言い方は無力です。飛躍した無茶が芸術創造だから、柔軟性と自由度の高さを尊敬したまえと論破が可能になるから。美術でない何かを美術と呼び、あり得ないと感じさせる冒険と、既成の概念を超えたアイデアを誇る。新しい創造だと認めない者は時代遅れの小者だ、老害だ、差別主義者だと釘を刺されたら、皆しぶしぶ認めるでしょう。『便器』もそう。STAP細胞もこの論法でした。実際に日本の現代アートは、ダダ運動タイプが今もメインでしょう。「舞台で焼き芋を焼いて皆に配るパフォーマンスアート」も、キャンバス画より格段に人気で若者も集まります。

――焼き芋と違いミミズは生き物だし、衛生上の問題で施設側に叱られますけど?

その言い方は無力です。焼きものはOKで、生ものはNGなら、写真に撮ったミミズを大量に並べて展示できます。天皇の肖像写真を焼くのはよかろうという話と同じ。ピカソもミミズも不快の語は一致するから、同等でしょと念押しされたら、日本人の誰が否定できるでしょう。ピカソがOKならミミズもOKだし、ミミズがNGならピカソもNGだと、道連れにされる理屈で。ピカソの特徴である「衝撃」「不快」の語が人質にとられ、ピカソとミミズを切り離せないトラップができています。現にやってウケている。

――嫌なものは嫌だと皆が思えば、それこそが正義ではありませんか?

その言い方は無力です。『表現の不自由展』の作品を線引きする言葉が提案されました。例として「悪意、過激、兆発、迷惑、侮辱、虚偽、不愉快、悪趣味、政治的」なアートは制限せよという意見です。しかしどの語も、ピカソや抽象全般とシュールレアリスムまで網にかけます。「過激」「悪趣味」はダリの具象画の特徴そのもので、「美しくない、つまらない」とくればゴッホ。言葉のワナにはまって、歴史名画まで規制ではじくことになります。ダリを展示するなら、公平に天皇も展示せよと押し込まれます。

――それだと、何でもかんでもアートだと言った者勝ちの、無法状態ですよね?

それがダダ運動タイプの狙いなのです。『表現の不自由展』の作品が過去に拒否されたのは、民族冒とくの放送コード抵触に近い理屈でしょう。美学を冒とくしたピカソと共通する「冒とく」をつなぐのが、ダダ運動タイプの論理です。間抜け特攻隊の作品に「芸術性が低いからダメ」と言っても、ゴッホやピカソはその言い方で排除された過去があります。芸術性を言えば、ブーメランが戻る仕掛けです。

――表現の自由など、最初から方便ではありませんか?

確かに、ヨーロッパではヒトラー賛美アートは摘発されます。ナチス親衛隊似のコスプレも違法。イスラム教をからかうイラストは爆破テロを招き、日本のコミックは児童ポルノ抵触で発禁とか。福島原発事故の放射能の千手力士は苦情だけ。相手国の禁忌を踏めば国際的な人権侵害ですが、禁忌を担保する力は司法かテロや暗殺です。日本人も普通に各国民を辱める手段は知った上で、やらないだけ。大物芸術家は意外に禁断を心得ています。例えばピカソは流血のグロい絵で騒ぎを起こしはせず、紳士的でした。晩年のエロ版画は、後に羽田空港で止められましたが。

――ダダ運動タイプが主張する自由は、社会秩序の破壊につながりませんか?

それが目的です。絵の破壊が創造だから、社会を破壊して絵を超えましたと。このアナーキーなトンチがダダ運動タイプの本領です。発端はピカソ絵画を見た画家の衝撃でした。芸術的に正当すぎる天才の飛躍に、後輩は未来に失望したのです。今から何ができるか。造形勝負の土俵から出て、場外乱闘に向かいました。最初はヤケクソでも、時代の気分にフィットしました。ところで『表現の不自由展』の議論と酷似した、平成のカルト教団事件がありました。地下鉄サリンの前の討論が、「表現の自由」に近い。

――あの時は、宗教の自由でしたか?

教団が村に引っ越すと、地元の人々は「怪しい、危険だぞ」と訴えました。しかし中央のリベラルと各宗教団体は「憲法で保証された信教の自由を守るべし」と教団に味方しました。村長は原理原則の正論の鉄ついにバッシングされ、結果は首都攻撃を止められなかった。

――宗教にも美術にも、自由が許される上限があると考えるべきですか?

間違いやすいのはそこ。やり過ぎなど程度の問題ではなく、次元が異なります。程度の差で考えると、話がまとまりません。過激度が10段階で、6なら宗教で、7ならテロへ変わる話ではないのです。行き過ぎで切り分けようとして、多くの意見が混迷しました。地下鉄サリンの後に欧州人は言いました。「日本人は宗教とテロの区別がつかない」。これは40キロの安全運転と、90キロの暴走を区別する話ではない。どこかでガクンと次元が切り換わっていました。自由表現と民族ヘイトは次元が違うのに、区別しないリスクがフランスの爆破テロでした。「芸術は爆発だ」と。

――宗教とカルトの関係が、芸術と反芸術の関係に似ているわけですか?

宗教無罪とアート無罪は、似た机上の論で錯綜しています。現代アートは次元が違う2種類があるという理解は、もはや欠かせません。三大画家タイプの芸術と、ダダ運動タイプの反芸術は現代の思考ゲームであり、なくせません。ピカソ顔のインパクト対、ミミズのインパクト。日本国内では、後者をより現代アートらしく感じるみたいで。『表現の不自由展』はその感覚を追い風にして、日本人の禁忌を結集した衝撃になりました。パーティーの闇鍋にあんパンでなく下駄を入れ、宴会を騒動に変えたみたいな感じか。

――日本の現代アート界で、ダダ運動タイプが優勢なのはなぜですか?

抽象造形がわからない人の割合の高さだと思います。日本では具象はわかるが抽象はわからないと訴える人が多い。すると現代アートの範囲で、僕でもわかるものは何かないかという欲求が高まります。ピカソの抽象よりも、焼き芋を焼いて配る舞台の方がまだわかるし、そっちが楽しいという話になります。ピカソ絵画のファンよりも、焼き芋アートのファンが優勢になる。ピカソは難しくてだめだと感じた層が、土俵の外へ出るブームでしょう。町づくりや体感型やレストラン巡りなど、抱き合わせイベントもこの流れか。

――国民全般がアートが苦手で、人だかりした方に自然に集まるみたいな?

長年ルーズに放置されたのが芸術の定義で、今も定義嫌いが多い。「はいはい何でも自由」「みんなアート」「人生は全て芸術」。自分が楽しいことを、芸術と呼べばいいんじゃないですか、という感じ。何を芸術と定義するかの奪い合いか。だからか日本でアートの語は、美容やエステが非常に多く。アートの語自体が嘲笑の対象でもあり。私は一度は基準を整理するため、太古からの歴史を点検しました。自分の思いから離れると、確かに政争の具となったプロパガンダ作品は歴史に多いのです。

――先にピカソを理解しないと、現代アートを表面的にしか解釈できないわけですか?

抽象が頭から嫌いな者が、表現の自由を不自然に死守するのは、罪ほろぼしなのかも。混沌とする中、三大画家タイプとダダ運動タイプの2種類があることは、理解の助けとなるでしょう。ダダ運動タイプには、相模原19人刺殺、川崎19人死傷、京都35人焼殺もアートだね式の、際限なきジャンル逸脱と騒動への期待があります。三大画家タイプが平和祈念あたりに収れんするのに、ダダ運動タイプが国家の分断や紛争を起こす結果は、フランスの爆破テロでも実証済み。芸術は僕には関係ありませんと思っていたら、身近に迫って利害に食い込んできました。

――今回の日本側の対応は、どう評価できますか?

まず日本政府の日頃の行いがスキだらけです。 緊縮財政と消費税で日本を衰退途上に置けば、水に落ちた犬のように先進国から叩かれるのは当然です。また海外に対して常に説明不足です。クジラもそう。1965年と2015年の説明も、「我が国の立場は変わらない」と抽象表現しても、誰も理解しません。この時の言葉こそ、得意の具象表現が必要なのです。私は以前、日本を世界に正直に説明するネット組織がないか探し、何も存在しませんでした。

――でも国会議員が、税金を出す立場から是正意見を述べたようですが?

今の中央が新興アートに苦言を行えば、新たな弾圧と受け取られます。政府の検閲だと報道が言い出し、世界中から日本を叩きやすくなるはず。美術の文化勲章は古典具象に集中し、近代抽象を下にみる歴史が長い。現代作品を購入した公立美術館の館長を辞職させた例も何度もあり、創造に門戸が狭いアート行政でした。上級国民が作品の価値を庶民に伝令する方式だと、誰の芸術力も育たなかった結果が出ているように感じます。

――知識人や芸能人やネット民なども、この展示を批判していますが?

国民が最も感じたのは、「自由表現」か「差別表現」かを判定する結論ありきと、俺様ルールの横行ぶりだったでしょう。そもそも戦後の日本で、「日本を守ろう」の弁論こそが最大級の「表現の不自由」です。国益を言うと吊し上げられ失脚する。この風潮に合流したのが、アート無罪のダダ運動タイプです。一方的な傍若無人の愉快さは、ピカソがわからない気分の受け皿になると私は考えました。ピカソ『ゲルニカ』のショックと、デュシャン『便器』のショックは次元が異なります。後者の手法は争点を美学の外へ移してから、美学の受難の歴史に引っかけます。

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