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電子美術館のQ&A

126 日本人にとって美術の価値は高尚さである

二十一世紀国際地方都市美術文化創造育成活性化研究会
2019/6/18

――日本人の美術観は、外国とどう違うのですか?

日本人の美術観を一言で言えば、「美術は高尚なり」です。芸術、美術、アートは高尚である。こうしょう。これが日本人の念頭にある大前提です。ピカソの絵も高尚なものとして見るから、混乱が増幅しやすい。高尚という言葉を知らない人さえ、抱くイメージは高尚と同じものです。

――でも高尚というイメージ自体が、そもそも嫌がる対象になりそうですが?

だから現に、日本国民は芸術を敬遠しています。なのにアートフェスティバルが盛況なのは、矛盾していると思われるかも知れません。しかし根っこは矛盾しません。敬遠とは完全排除や、絶縁ではないのです。美術の敬遠は身近にアートを置かずに、遠くに置いて慕う状態です。一例が、11月の文化の日だけ美術館巡りする慣習でした。毎日美術を見るのではなく、年に一回でいいやと。これも、敬遠というかたちで高尚扱いしているわけです。

――高尚はいやだが、そういうものだとして、皆はあきらめているのですかね?

高尚ゆえ身近には親しめず、しかし同時に高尚ゆえ遠くから興味を持つのです。この距離を置いた関係が日本での美術の位置づけです。高尚という日本語は「高く遠くで輝く高貴」であり、日本人のアート意識にぴったり合います。高尚は、まるで芸術のための語だと思えるほどで。

――高尚とくれば書画骨董や古典名作など、古美術の話を浮かべますが?

アンティークやビンテージでない新作の現代アートも、日本では高尚な扱いです。郊外で行う現代アートフェスティバルもその表れで、人気に目を奪われますが、遠い旅先で体験するイメージどおりです。地元の都市部ではなく、遠方の田園光景の中で芸術に触れるわけで。そのハレ舞台は、国民が思い描く高遠なイメージに一致します。

――海外の美術祭は、そこが違うのですね?

欧州では家に現代アートを所有したり、オフィスにコンテンポラリー絵画を飾る市民が多く、美術コレクターも多いのです。それも印象派でなく、ポロック以降の抽象なのが大きい差。アートは遠くではなく近くにあって、普段の暮らしに溶け込んでいて、友だちのように親しい。だから美術祭は、公民館みたいな身近な場所で開かれます。ハレ舞台を拝む日本式の現代アート大会とは正反対に、販売会のスタイルをとり、しかも売れる。日常の近隣イチバで売買するから、神聖や高尚とは逆の扱いで親近感があります。

――日本だと、アートが友だちという感覚は想像もできませんから?

欧州ではパンを買うように、大きい絵でも買います。美術展の数がそもそも多く、美術展の頻度も高い。ドイツでは同じアートフェアがシリーズで年4回開催されて驚きました。欧米ではアートが一般化し、日本では特殊化しています。

――美術の特殊化とは、高尚と同じ意味ですか?

言われてみると、そうかも知れません。高尚が特殊化の言い換えなら納得。高尚への国民の対応は二つに割れます。(1)感動できるゆえ高尚を求める。(2)気が重いゆえ高尚を敬遠する。求めながらの敬遠が、高尚への分裂反応です。そのせいで、美術が国民に好かれているかの判断はどうとでもいえます。一人の鑑賞者の内心も、二つに割れるはず。「美術鑑賞は気が進まないけど、見ておくべきかな」「アートブームが今起きているなら、僕も乗りたいね」という感じで。心理的な距離が遠く、しかし切れずにつながっている。世間で話題の展示は一応チェックするみたいな。

――日本で美術に意見を言う人が少ないのも、高尚だからですか?

それは大いに関係があるでしょう。例えばネットで気になるこの言い方です。「美術の価値がわからない」。「価値」の語が入っています。「絵がわからない」ではなく、「絵の価値がわからない」という言い方です。価値。

――作品が何円かという、相場価格の話ですかね?

世間で言う「価値」とは、定評と値段の二つの意味があるでしょう。価値とは、有効性、取り柄、ほめどころなど定義済みの固定評価を指すと考えられます。値段はその後からついてくる程度の考えか。まずは神の決定や業界での約束ごとといえる、定評をイメージしているのでしょう。定評どおりのものを見抜けたら絵がわかる人であり、見抜けないなら絵がわからない人にとどまる、そんな振り分け感覚が日本で起きている疑いがあります。

――そうした作品の価値を、鑑賞者は見抜けるのですか?

何をいくら見抜いても、正解が当たる確率はゼロです。美術評論家には不可能で、同業者どころか作者自身も当てられません。なぜなら絵の価値には正解がないからです。「僕にとっての価値」と、そこまでしか言えないはずです。しかも、それで足りています。

――決まった価値など実はないのに、国民はあるつもりで見定めようとするわけですか?

その国民性が何となくみえてくるのが、ネット掲示板です。意見を戦わせる際、「それは自分の感想でしょ」「あなたの意見にすぎない」「個人の見解など知らん」「自分の主観で書くな」と突き放す書き込みがよく出てきます。

――自分の意見を言うと、それは主観にすぎないとして叩く人がいますね?

「その発言は主観的だから」と却下する日本人のクセです。「あっちがああ言った」に対して「こっちはこう言う」で応じる展開になりにくい。世に客観なる正解がある前提で、主観的な個人意見は信用に値しないからと、直ちに切り捨てて消し去ろうとする日本に特有の行動です。「それは君の主観さ」と言い返せば、論破した意味になるのが日本。

――つまり日本では、公式発表や定説を特別にありがたがるという?

「独自の見解」という決まり文句もそうで、発言内容にエラーがある批判の意味で使われます。日本では独自やユニークという単語は、悪い意味になっています。独自とは、主観と似た意味です。国民は主観という信用ならない発言を除去したがっており、神の声として公式の定説を最初から求める願望があります。主観なんていらないから、正解をきちんと知りたいとして。

――でも他人の主観を却下する基準も、却下する人の主観ですよね?

だから、ブーメランです。客観性なるものとて、全ては誰かの私見です。そもそも国際条約や憲法さえ、ヤハウェやゼウスやアポロなど天の取り決めではなく、地上の人が考え書面にしたものです。誰かの思惑や願望や利害や忖度や信仰がしっかり盛り込まれています。そんなものだとの見方が苦手な例は、国際スポーツのルールでしょう。

――欧米ではアスリート側が競技委員へ意見して、自分に有利なルールに変えさせますね?

日本ではルールを神の声とみなし、絶対視しがち。価値は上から降りてくる前提で従う美術の傾向が、スポーツの規則に対してもやはり表れます。「正しい作品を見たい」「正しい解釈を知りたい」と、正解に思いをはせる鑑賞を正統と考えてしまう。自分の目で価値を測らず、決められた価値を仕入れて学び、身につける方法をとるのが日本。

――それで新作美術を見ても、何も言えずに終わるわけですか?

作品に正解を求め、見た感想にも正解を求めるから、価値が決められていないものに対応できず、自分の出番がないのです。自分の基準点がつくれず、一家言も生まれません。居場所がない。自らを透明な存在に置いた状態です。正解を外から教わるまでは、作品がわからない時間が続くことになります。美術がわからない症候群の一面は、個人意見をつつしもうという道徳です。

――外国の人は、そういうふうに美術品を見ていないのですか?

「作品を見て僕はこう思います」「こう感じた」と、個人の感想を言うのが外国の人たちです。「作品の価値はこうです」と、定評を伝えるのではなく。それで、日本人がわからない作品も欧米人はわかります。大勢がわかるから大勢が買う結果となり、作品を売る美術展が大半です。お客が展示物をわかる前提で計画する展覧会だから、背伸びなしに売買市場が自動的にできてしまうのです。

――でもそれは単に、自分がわかっているつもりなだけですよね?

その考えがいかにも日本的です。自分がわかったつもりで何がまずいのか。それ以外に何があるのか。多様な私見が集まった上に、神の声や鶴の一声や、会長の言葉や裁判官の判決を頼るのか。正解がない美術に対して、正解を求めるのは無駄です。『モナリザ』の解釈に正解はなし。正解が不明だとか届かないとか誤差があるとか、困難すぎて挑戦するだけ無駄だという話ではなく、正解がそもそも存在していない原理です。

――本人がわかった気になれば、足りるわけですか?

現に日本でも美術以外はそうです。音楽も映画も、評論家は正解を語りはしません。「正しい見方を知らない」「作品の価値がわからない」という悩みや「個人の解釈は避けてきちんと正しく学ぶ」の心構えは、日本のしかも美術で起きている変わった風習です。美術だけがおかしい。そうして特殊化して、高尚で縁遠いわけで。

――確かに音楽や映画より、美術は肩ヒジ張って、かた苦しい世界ですから?

外国人は美術に接してもリラックスします。日本人は緊張して固く萎縮します。さあ楽しみましょうと言っても、コチコチなのが日本。このプレッシャーが起きるのは、「価値を知れ」という指令が念頭にあるからでしょう。難題が解けるかどうかを試される場だから心細い。日本の美術鑑賞者は、受験生のような不安な心理です。

――日本の美術市場が小さいのも、買う側が客観的な価値を求めるからなのですね?

自分の目で見ないと買えませんから。例えば前からネットにある「美術市場を拡大する提言」の内訳は、「美術の価値をセレブに教え、買う意義を知ってもらうこと」です。「価値情報を知らないから買わない」「高い資産価値だと知れば興味がわいて買うであろう」。富裕者に資産価値を伝授し、投資や投機で動いてもらう。エンタメのアートのはずが、資産形成へ話がずれています。美術が金融商品に扱われ、株や土地と似たような感覚になっています。本気でそちらへ向かうのか?という、悪質なアドバイスです。

――資産家がアート購入の上客としてモテて、庶民は放置ですか?

記録が目当てかも。アメリカ、中国、フランスなど各国で年間に美術作品が売買された金額は、オークションなどメジャーな売買の合計です。街の美容室に飾った絵が売れた8千円などは、カウントされません。美術市場を拡大する提言は、統計数字を上げるのが狙いで、庶民の美術力強化の優先度は低い。ボトムアップよりトップダウンへ向かうのも、高尚な位置づけの表れでしょう。

――そのような富裕層に買わせる作戦で、欧米は美術市場を大きくしたのですか?

欧米はボトムアップでしょう。庶民が美術を見てわかり、楽しい、だから国全体で売れる数量が多いだけの話。自分の目で見るから買うことができ、そこにセレブも含まれる。欧米でアートのセレブ買いは盛んですが、「庶民はアートはわからないから後回し」とは違う。だから作品を選別し順位づけする公開展示は欧米ですたれ、パンみたいに絵を並べて皆が見て買う、アートフェア方式の展示ばかりです。

――日本だと今も何となく、上級文化人のみ美術がわかる前提がありますね?

だから庶民にモテたい芸能タレントは、自分に芸術的感覚があってもあまり表に出しません。高尚が鼻についてファンが離れる危険もあるから。こうした高尚さは、例えば美術館サイトのデザインにもみられます。いかめしく、正統、厳粛、神聖、神妙を目指した、気高いホームページが目立ちます。さらには漫画やドラマや映画でも、画家を主人公にした脚本は高尚な方向ばかり。近世美術の雰囲気の、求道的な画家人生でドラマ化しやすい。20世紀の破壊と創造より前時代の、お絵描きさんの物語にとどまっています。

――日本でもどんどん、アートフェアを開けばよいのに?

日本は美術市場の一般化を急がないと先細りです。ところが、「皆様の目で自由に見て評価して買ってください」と解禁しても、「僕には価値がわかりません」「どれがよい作品なのか教えてもらう方が安心できる」に戻りやすい。日本で今もアートフェアがまれなのは、くだけた民主的な運営が高尚のイメージにそぐわない面もあるでしょう。

――そうなれば、もはや悪循環ですね?

「自分の目で見ない」「するとわからない」「だから自分の目で見ない」「だからわからない」の無限ループです。東京のアートフェア型イベントに出展した人の話では、面識がないお客は自分のブースを通り過ぎるだけだそうで。日本のアートフェアは仲間と会える社交場に化け、縁者同士がつながるオフ会ミーティングの合同会場だそう。「僕は美術がわかるし楽しくて、未知の何かを探し出して買うんだ」という空気ではないそうで。くだけた雰囲気にみえても、縁故サークルに閉じていて、開かれた市場とは違うらしく。

――美術の先生が指導して、一から国民の目を育てることはできませんか?

一部の美術関係者たちは昔から、「作品を自分の目で見て感じましょう」と言い続けてきました。そんな指導は海外だと不要でしょう。しかしアートの価値を上級国民から下級市民へ与えていく公募コンテストばかりの中で、自分の目を大切にと言う指導も無力でしょう。音楽や映画とは接し方が異なる上意下達がいまだ堅固です。「絵の価値をわかりたい」の言い方の裏にあるものは深刻です。

――日本でも現代アート祭が盛り上がっていて、それはどう考えればよいのですか?

日本で話題の美術は、由緒ある作品が主でしょう。知名度先行で、追いかけて価値を教わり語り合う盛り上がりです。そうなっていると判断する証拠は二つ。ひとにぎりの限られた美術家に注目が極端に集中して広がりをみせない点と、現代アートもコンテスト方式で回っている点です。「この作品には価値がある」という楽しみ方であり、値打ち情報で盛り上げてきた古美術とあまり差がありません。個人見解を邪道として、価値を上から下に降ろしていく流れは、現代アートでも同じ調子で続いているのです。日本人の美術観を一言で言えば、「美術は高尚なり」です。

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