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電子美術館のQ&A

123 建築非芸術論は本当に正論なのか

二十一世紀国際地方都市美術文化創造育成活性化研究会
2018/9/5

――建築非芸術論とは何ですか?

建築家で評論家の野田俊彦(1891〜1932)が、1915年(大正4年)に発表した学術論文です。建築は芸術ではないと説いた論文です。意訳するなら、オフィスビルや駅ビル、図書館や美術館、ショッピングセンターやマイホームや倉庫など、あらゆる建築物それ自体は芸術ではないという、原則論を唱えた主張です。

――今は、それから100年以上もたっていますね?

野田俊彦はゴッホが亡くなった翌年(明治24年)に生まれ、音楽のプロコフィエフと同年で、画家ミロの二つ年上です。しかし昭和6年に41歳ほどで亡くなっています。1983年まで生きたミロより51年も前に没しています。太平洋戦争が始まる9年も前の没だから、文明開化から大正モダニズムの民主社会の盛り上がりまでを体験しています。その後の軍国主義や戦後の焼け野原、東京オリンピック(1964年)や日本万国博覧会(1970年)などとは無縁の人です。

――その論文はどういう内容ですか?

『建築非芸術論』の主旨は、「建築は、絵画や彫刻などの芸術とは異なるものだ」「建築物は実用品だから、芸術作品とは違う」「建築には装飾を加えないのが本来である」でした。前年の卒業論文を手直ししたものらしく、その卒業論文では実用性を重視した劇場設計案も提出しました。ちなみに劇場などホールを含む複合文化施設は、イスの配列や動線計画が複雑で見映えがよいから、基本計画図だけで足りる建築学科の学部卒業制作で今もよく選ばれます。

――何が目的の論文だったのですか?

建築界の永遠のテーマのひとつに、実用性とデザイン性の対立があります。デザイン重視のあまり、使い勝手を犠牲にした建物への批判が昔からありました。明治大正の日本では西洋のオーダーと呼ぶ様式建築、ギリシャやローマ神殿をアレンジした帝国様式が流行りました。ゴテゴテした飾りが多い。旧東京駅や大阪市中央公会堂もその系統でしょう。地方都市の古い銀行ビルにも洋館タイプがあります。旧横浜正金銀行や、旧日本生命九州支店だとかも。

――機能を犠牲にした派手なデザイン建築の話なら、今でも時々聞きますね?

最近も2020東京五輪のメインスタジアムが、デザイン先行型でした。CGソフトのモデリングとレンダリング機能を駆使して、幻想的な絵を描きます。その完成予想図は非常に魅力的でした。しかし鉄骨を入れて倒れないように組み上げて、建設後10年活用するのに一兆円かかる試算だそうで、少し前に国内でバッシングがあったばかりです。成長をあきらめたデフレ日本国にはもう不可能で無駄づかいだとの結論が出され、実施設計の前にボツにされました。

――でも芸術を真っ向から否定する論文だと、いかにも騒ぎになりそうですが?

『建築非芸術論』は、建築を芸術扱いしてもてはやしていた大正時代の風潮に対して、リアルタイムで一石を投じたようです。建築も芸術だ派と、建築は芸術でない派に分かれ、長い論争となりました。昭和時代になっても論争は続いて、平成時代にも業界で意見が出されています。個人の意見もたくさん出されています。

――その論文の内容は、どう評価できるのですか?

私は学生の時にこの論文を教えられ、プリントが配られました。論文は正論だと思いました。そして正論ゆえに、否定され続ける気がしたのです。

――正しい論だとすれば、なぜ否定されるのですか?

正論が否定される例は意外に多くあります。例えば食べ物です。一番わかりやすいのは殺生です。動物を殺して食べるのは残酷であり、その罪を犯さないよう植物のみを食べる主義があります。

――菜食主義は日本ではあまりみかけませんが?

日本では大勢が、動物と植物ともに命ある生き物だと認めているからです。肉を食べるのは残虐だが、野菜を食べるのは残虐でないという発想は日本では一般的でないから。肉と野菜の両方が、等しく生物だと日本人は心得ています。

――生き物の殺生を禁止したら、食べるものがなくなりますからね?

そこで西洋では全否定せずに、線引きしているのです。「小さい動物は食べてよいが、大きい動物は食べてはだめ」「憎たらしい動物は食べて、かわいい動物は食べない」「知能が低い動物は食べて、知的な動物は食べない」「縁遠い動物は食べて、身近な動物は食べない」「養殖なら食べて、天然は食べない」などなど。

――どの区切り方も、即ブーメランが返ってきそうですが?

日本とは違い、当然西洋の中でよくもめます。こっちがよくてあっちがだめな理由を突き詰めると、差別の起源がずらりと並ぶからです。見かけや由来やイメージで、値打ちに差をつける着眼点が、まんま差別の発生原因であり、差別する側の思考の告白になっているわけです。何を食べて何を食べないというのは、その人が差別する基準とイコールだから。そのせいで議論がすぐに出てきて、しかもすぐに話がそれていくのです。

――動物と人との縁故という、差別理由もあるのですね?

例えばアメリカ大統領が日本訪問した時の晩餐では、馬刺し(ばさし)という馬肉の刺身をコースから省きました。馬刺しは稀少で、非常に薄く切った小さい冷凍生肉であり、味をあまり感じません。大事な馬の命を人間が受け継ごうとした、訳ありの料理に思えました。それを省いた理由は、アメリカ西部開拓史と関係があるでしょう。

――日本はクジラとイルカで、外国との摩擦に巻き込まれやすいようで?

線引きする動機は、理屈でなく感情です。植物も生きて命を持ち、命に軽重はないという正論は、感情によって常に退けられます。理屈を聞けば正論だと納得できても、食べる段になれば情緒が前面に出るから。食は保守的です。

――日本の感覚は、むしろ科学的だと思えますが?

食塩などと違い、酒をつくる酵母や、チーズに生えるカビも生き物です。生死があって個体数が増えるものは、生き物として扱うのが日本式です。有機的かつ子孫を残すという生き物の定義と、食材の感覚は日本では近いものです。

――その正論が、西洋ではウケないわけですか?

西洋文明では、人間は支配的な地位です。例えば気温が高い猛暑が続いた時、「地球を熱くするのも冷たくするのも人間しだいだ」という発想は、西洋に特有です。人が地球をどうにでもできる説は、西洋から入ってきました。日本ではむしろ逆に、「人間がどうなるかは地球しだいだ」が土着の感覚です。アスファルト舗装で、僕らの住む街の空気を熱くした罪程度を反省するのが日本の思考でしょう。日本人は僕らの力で地球をどうにでもできるという、人間の偉大さを誇る考えを持たない傾向があります。

――建築非芸術論も、人間の誇りに触れてアウトになったのですか?

「僕が中心だ」式の西洋哲学と、『建築非芸術論』は何か関係がある気がしました。勢いがある建築家にとって、自分の作品が芸術でないという定義は受け入れ難いでしょう。自分の仕事は芸術に含まれて欲しいはずで、「僕は芸術家でありたい」という思いが後世の『建築非芸術論批判』にちらつきます。そのせいか、芸術でないとの説は粉砕すべしと、結論ありきで走る主張もみられます。

――世を支配している感覚が強いほど、自我が強くなるようなものですか?

「植物も生き物だから同じ殺生です」「等しく命を奪っています」「生物の犠牲なしに生存は不可能」の正論があり、それをかわすに似た感情が『建築非芸術論批判』にも混じると、私は感じていました。「神は存在するか」の議論に、信者が過敏になるのと似ています。当事者の思いが噴出する意味でも、『建築非芸術論』は問題作でした。

――するとやはり、建築は芸術ではないという正論の勝利になるのですかね?

ところが私は自著を出した前後に、この問題の焦点がみえたのです。『建築非芸術論』が主張する骨子は、「建築物は実用品であるがゆえに、絵画や彫刻など芸術品とは存在のしかたが異なる」というものです。「実用的であるから」「装飾は不要である」という二点のロジックが重要なポイントです。これは芸術表現とは何かの定義が19世紀的です。本来は建物にないはずの飾りがもしあるのなら、芸術へと路線変更されたという解釈になっています。それに対して、私の定義は20世紀以降向けです。装飾は芸術性に関係しないという解釈です。

――かなり難しい話のようですが、芸術の定義が時代変化したという問題ですか?

私は少し前から、「芸術の特徴は表現の裂け目である」という新定義を唱えています。「表現の裂け目」とは、歴史審判を受けた古今東西の表現物を確かめ、傑作に共通する特徴を言ったものです。裂け目は、表現物全てで有効な普遍的着眼点です。この着眼点なら絵画も音楽も生け花も、漫才やバレエも鑑賞のツボが同じです。個々の美点を個別に学ぶ必要がなくなります。植物を生き物に含めるのと同様に、太古を芸術に含めています。ルネッサンスや印象派などの、局地的な範囲で芸術を語るのではなくて。

――その新しい定義だと、実用性という条件は出てきませんね?

そこです。私の定義だと、誰が何のために作り上げたかの動機や目的は不問です。実用性を高めた成功作か、使うに耐えない失敗作かも関係ありません。謎の断層を発する表現物を、芸術性ありとするのが私の解釈です。これなら建築も芸術にあっさり含まれます。

――つまり感動があれば、芸術だというわけですか?

感動は関係ないでしょう。感動の内訳は同類たちの同調が多く、普遍性がありません。趣味が合うとか身内だから感じ入ったり、ひいきの引き倒しも起きるのが感動の正体です。感動は気分であり、情緒であり、忘我の熱狂だったり、舞い上がってカルト化しやすい性質があり。しかも、感動は扇動でどこまでも高まります。テレビ番組で全国が感動する集団陶酔も起きるし、構造的にムーディーです。ハッピーで楽天的で。それに対して、「表現の裂け目」はもっと冷めた方向のリアリティーです。感じがよいかも無関係だし。

――建物の良し悪しはピンキリで、キリが芸術だという、ありそうなオチとも違うのですか?

注意を要するのは、建築家が狙ったデザイン趣向が、そのまま芸術性にはならない点です。壁がクネクネしていたり、美色の外装仕上げや、夜間照明が幻想的だとか、そうした意図した表現があるから芸術と呼べるという、その区切り方を私はやりません。作者自身が講じた仕掛けが芸術なのだという、動機重視の見方ではないのです。「表現の裂け目」はもっと偶発的に生じているものです。

――実用物は非芸術で、表現物は芸術という、単純な区別ではないのですね?

『建築非芸術論』にもその反論にも、作者による作為表現を芸術だと解釈しているフシがあります。デザイナーがこったデザインをほどこせば、そのこったテイストが芸術性だとする解釈です。ところが「表現の裂け目」は、作者がほどこしたデザインに一致するとは限りません。偶然に、唐突な予定外のハプニングで生じる謎の違和感や不調和な調和もあります。作者のシナリオになかった、時には作者が望まぬ亀裂が、実際の芸術の核心になり得るのです。作者の意に反した部分に芸術性が宿ったケースもあるはず。作者の狙いどおりだと、芸術的に低かったはずの番狂わせが。

――作者が仕組んでいないのに、知らないうちに表現される芸術なんてあるのですか?

一例がゴッホです。「僕はもうボロボロで、まともな絵を描けない」と未来を悲観した、その救いがたい失敗作が今日の最高傑作です。残された絵は、本人が望んだ理想ではないのです。ゴッホの絵の特徴に、ゴッホの思いどおりが実現していない点があります。「本当に描きたいのはこれとは違う」と、不本意な怨念が最晩年の絵に感じられます。ゴッホ自身が自己抑制できず脱線し始めた作品が、今日の傑作です。彼が思いどおりに描いた頃は、むしろ凡作でした。

――結局、建築非芸術論は正論だったのですか?

明治大正の正論でした。『建築非芸術論』には、明治維新の流れで当時強かった西洋的な視点が多く含まれています。ロシアの文豪トルストイの『芸術とは何か』(1898年)に影響された『建築非芸術論』だと、ネットにあります。西洋哲学が背景にあったと想像します。例えば「美を追究する努力の果てに芸術に至る」という道順も、その古典的な視点です。人が美をコントロールする力を信じている近世の価値観が、強く表れています。天才は何でも意のままだという、日本でも何となく信じる方向です。地球の温度を上げ下げするのも人間の力なり、という強い自負と似て。

――実際の芸術は、人間が支配しにくい領域にも広がっているものなのですか?

「表現の裂け目」説にその発想を入れています。20世紀に人類はゴッホに目覚め、やりたいこととできたことがずれている芸術の本質に気づいたのです。ずれたタイプの作品が歴史に残っていると、わかってきました。そうした表現の裂け目は建築にも生じていて、建築家がもくろんだシナリオの外側にまで裂け目が広がっていたり、美の概念から離れてしまうゴッホ効果も、各地の建物に起きているでしょう。そこで欧米では古建築を長く使い続けて、建造物の芸術的価値に後世が気づく機会を用意しています。人間が支配できない領域にも関心を広げているのです。

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