現代美術とCGアートの謎と疑問に答えるQ&A もくじ
電子美術館のQ&A

67 子どもに芸術はわかるのか

二十一世紀国際地方都市美術文化創造育成活性化研究会
2011/9/22

――難解な現代美術を、子どもが見てわかるものですか?

大人と子どもで、受け取るものはだいたい同じだと考えられます。

――子どもは、子どもの視点で見ている気がしますが?

受け取る「もの」に、大人と子どもで特に違いはありません。信州そばを食べて、大人も子どももほぼ同じ味を感じるのと似ています。前に言った「五感の段階ですでに違う」というばらつきは別にして、「大人はこう感じ、子どもはこう感じ、2つは水と油だ」というような差はないでしょう。

――確かにごはんの味は、子どもの頃と同じですね?

私たちは美術で、そこに深刻な誤解があります。一人の人間が児童の時と成人後とで、同じものを感じることを忘れやすいのです。私たちは子どもが美術を見る時、まさか芸術はわかるわけがないと片づけています。芸術性は心身が成長することでわかるようになると、ばくぜんと思っています。学力や教養と並行して、芸術に通じる力が身につき、年齢とともに高まる話にしています。実際は味覚と同様なのに。

――でも美術鑑賞で、子どもに感想を言わせたり書かせても、結局は子どもっぽい内容ですが?

それは受け取った「もの」を、再発信する表現力不足です。言語力の問題として、トークの技術やペンの技術ができていないだけです。そばの味について子どもに言わせて書かせても、同じことが起きるでしょう。

――それなら、子どもは芸術がわかっているのですか?

子どもは芸術しかわかりません。

――えっ、どういうことですか?

子どもは美術作品を見て、そこに込められた芸術性のみキャッチします。ピカソの絵を見て、芸術性だけを読み取って、それ以外は読み取れません。

――それ以外の読み取れないものに、何がありますか?

「実はモデルは女性だ」「実は当時の愛人だ」「実は若い職業カメラマンだ」「実は世界戦争の直前の頃だ」など、付属情報からアプローチして気を回すことが、子どもはできません。子どもは作品の中にある芸術だけを受け取ることができ、それ以外をつたって作品に迫ることができないのです。

――ということは、芸術性の乏しい作品を子どもが見たら、何もなしに終わるわけですか?

もちろん、そうなっています。

――大人が美術を見ると、その逆になるわけですか?

大人も子どもと同じものを感じるはずなのに、すぐさま予備知識が割り込んできます。「大画家ピカソの作だ」「世界一の画家だ」「絵は高額だ」などと。目玉作品はポスターやチラシで確認済みだし、展示の意義も了解済み。自分が何のために会場にいるかも知っていて、作品に触れる前に物語ができあがっています。大人は気持ちの落としどころが最初から決まっていて、むしろ補足的に作品を見る感じで、展示室で意外な展開はまず起きません。

――大人は作品から、まず何を受け取るのですか?

一次審査的に、無意識に2カ所を調べるでしょう。絵のデッサンが実写に近いか遠いか、そして既存作品と近いか遠いか。実写に近いほど芸術的とみて、既存作品に近いほど安心を得るのが一般的。安心の享楽をも、芸術の証明と思ってしまいやすい。かくして芸術性と関係ない方向に力が入ってしまうのが大人です。

――大人は作品の意味に、無意識に執着しますよね?

文章を読むように、絵を読もうとします。これはどういう意味か、どういう理由でそうなっているのかと、分析的なチェックに進みます。赤い丸はりんごなのか太陽なのかと、ネタ当てが始まったりして。

――大人は、作品の技能面にも気を回しませんか?

会場が販売画廊なら、絵らしくあるか、達者なプロレベルかなど、商品価値も点検するでしょう。作者との距離や関係をみるのもありがち。作者の世代、性別、ついで顔や人柄はどうか。イケメンか、カワイコちゃんか。美術を勉強した人なら、これはポップかアンフォルメルかと、カテゴリーを知ろうとしたり。大きさは何号か、とか。一方、子どもはそんなことに気を回さず、形と色を受け取るだけ。だから子どもは美術が難解だとの自覚を持たないし、持てないのです。

――芸術を受け取るのに、大人の方がハンデを負っていることになるのですか?

作品のアラウンド情報に取り囲まれ、かえって核心に届かない恐れが大人にはあります。子どもは核心だけに直結して、大人は周辺に広く気が回っている違い。

――それだと、大人と子どもの合計でやっと一人前ですね?

理屈では、一人前になる道は大人の方が短いでしょう。なのでこの問題は、「大人が子ども並みに芸術をつかむコツ」という鑑賞技術へ進展します。作品を前にして、関心が芸術以外へ回り込み、散開していく大人の感性を、生来のデフォルト状態へ戻すにはどうするか、という対策です。

――どうすれば芸術から離反しがちな大人を、芸術の近くに引き戻せそうですか?

実は作る側もそれを考えます。相手が芸術と違う方へ向かわないよう、相手の関心に応じずに作るわけです。例えばりんごをそれらしく描くと、写真に似せた模写作業が芸術行為だと思っている先入観への迎合に終わります。そこで、りんごを四角くブルーに塗るなどして、予定調和を妨害して混乱させ、相手を囲い込んで再考をうながすわけです。

――何だか、松下幸之助みたいですね?

「客の好むものではなく、客のためになるものを売れ」との、松下格言は前にも出しました。「自分のやりたいことはこれ」を言いながら、「芸術の真意はこれ」を伝えようとする画家もそれと似ています。客の現状に合わせた作品は、一世を風びすれど世界美術史に残存せず、これは科学的なアプローチでしょう。

――昔の画家たちも、そういう指導的役割を帯びた制作をやっていたのですかね?

西欧ルネサンスの著名な美術を見ると、「芸術の定義」まで宣言する意気込みがみられます。「芸術らしく作りました」とか「こう作れば喜んでもらえますので」なんて画家はいません。「君らはみんな間違っている」「僕が芸術の意味を正しく教えてやろう」「世直しならまかせたまえ」という独善性に満ちているのが歴史名作です。

――だからといって人々が、「それを見て芸術がわかりました」となるものですか?

たいがいは、「何で、りんごが四角くてブルーなの」「意味がわからない」「かいた人がおかしいんだ」「こんな絵は嫌い」という流れになるでしょう。そんな場合でも、子どもは絵が持つ力感と重みをさっさと感じ取ります。子どもは難なく芸術と向き合って吸収するのに、大人は芸術の意味を持って回って、あげくに「わからない」と暗礁に乗り上げます。

――子どもには芸術はわからないとする前提を放置すると、何か害はあるのですか?

「子どもが届かず大人が届く領域に芸術性が宿る」という前提に、作る側も見る側も束縛を受けます。「子どもが反応する美術は芸術に値しない」となるわけで、これが芸術の定義に影を落とすのです。画家は「子どもなんかにわかられてたまるか」と、作品全体の味をどんどん薄めて、地味でおもしろみのない方向へ行くわけです。微細な部分に手指の器用さをとことん発揮したりして。大彫りで派手でおもしろみがある作品は、お子様向けだと批判されかねないから、作る側も見る側も知らぬ間に小味の部分に集まってきます。

――そうして、主張の乏しい沈んだ作品ほど、神妙にありがたがる風潮になっていくわけですね?

それに関連しますが、「画集で芸術性は伝わらない」などと、美術史に反した信念を大人はいだきがちです。実際には、芸術性は粗末な写真にも露骨に写ります。デリカシーが落ちた図版でも、芸術の核心は落ちにくい。写真図版は、子どもが見た作品の印象に近いかも知れません。芸術は高解像度でかろうじて判別できる微妙なものではなく、作品の真正面の全体にいつもバーンと出ているから。

――話は変わりますが、子どもの時に名作を見て不気味さや、グロテスクを感じた覚えもありますが?

PTSDをまねく作品は歴史の表側に残らないので限度はありますが、気色が悪い表現への耐性は、大人の方がずっとあるでしょう。例えば中世ゲルマン系のキリスト教絵画は毒々しく陰惨なものが多く、子どもは軽いPTSDになるかも。ホラー映画も慣れている大人は、そこはやはり強い・・・

――過大な刺激への対応力は、大人の強みですね?

大人の芸術的感性は、文明生活へ順応するうちに退化し、キャパシティもセンシビリティも落ちたと私は推測します。作品の周辺やウンチク情報にすぐに気が回ってしまう傾向も、それと関係があるのでしょう。しかし子どもの頃の体験は記憶に残っているはずで、今から美術全集を再びめくると、退化する以前に感じた芸術性がフラッシュバックして、黙示を受ける可能性が期待できます。大人が子ども並みに芸術をつかむコツのひとつは、見覚えのある絵を図書館の本などでもう一度見てみることです。

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