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電子美術館のQ&A

38 絵画の値段、一号いくらは合理的か

二十一世紀国際地方都市美術文化創造育成活性化研究会
2010/5/9

――絵の値段の「号いくら」というのは、どういうものですか?

絵画の値付けで日本で使われてきた、要するに牛肉の計り売り方式です。肉ごとに100グラムいくらと決めるように、画家ごとに油絵1号いくらと評価額を決めておいて、号数をかけ算します。地位が高い画家はこの数字を持っていて、国民は数字を見て画家の優劣を読み取ります。

――何か、いかにも批判が出てきそうな方法ですが?

誰もが連想するように、「あれじゃ、まるで肉の販売だ」とよく言われました。

――初歩的なことですが、号数とは何を意味する数字なのですか?

キャンバスを張る木枠(きわく)サイズの型番のことで、数字はほぼ面積比です。60号は15号の4倍の面積、40号は100号の38パーセントの面積です。ちなみに畳の面積は何号かというと、タテ180センチ、ヨコ90センチちょうどの畳なら、77号に相当します。

――畳は、絵としてはあまり大きく感じられませんが?

同じ面積なら正方形に近い形状ほど、見た目のボリューム感は大きくなります。タテヨコ比の違いで、F、P、Mという3種類のプロポーションがあって、よく使われるFは正方形に最も近く、Mは最も細長くなっています。長辺の長さは3種が共通で、短辺の長さを3サイズに作り分けています。数字が面積比となるのは、Fの場合です。

――100号は、1号の100倍の面積というわけですね?

実はそうなっていません。理由は、比率の級数から外れた例外サイズがいくつかあるからです。0号は当然として、1号キャンバスはそれが極端で、実質1.67号なので、100号との違いは100倍ではなく60倍です。ほかに誤差が大きいのは10号で、実質11号なので、100号の10分の1ではなく、8.8分の1です。

――けっこう、でたらめじゃないですか?

面積比にほぼ合っている号数と、まるきり合わない号数があって、合っているのはフランスに元からあった号数です。合わないのは、日本で後から加えた号数です。

――あれですか、フランスサイズ何たらという?

それではありません。そっちにも触れておきますが、木枠の「フランスサイズ」と「日本サイズ」は、タテヨコ長さが両国で微妙に異なる問題です。具体的には、120号はフランスで195×130センチですが、日本では193.9×130.3センチで、長辺が1.1センチ短く、短辺がコンマ3センチ長くなっています。(編集注:ネットでは日本サイズは194.0センチと記されている)

――見てもわからない違いですが、何か問題があるのですか?

フランスサイズの120号の油絵を分解して木枠を交換する時、日本で売っている120号の木枠を当てるとします。日本製は長辺が1センチほど短いので、絵の具で塗られた部分に木枠のフチが押し当てられ、布の折りグセの位置が変わって、絵の具がヒビ割れたりします。

――逆に日本の120号キャンバスを、フランス製の木枠に替えたらどうなりますか?

布の方が小さいので、既存の折りグセ部分が客の目に触れる表側に出て、額ブチで隠そうとしても、ふくらんだりしてうまく収まりません。互換性はないと考えた方がいいでしょう。

――なぜフランスと日本で、長さが少しずつ違うのですか?

フランスはメートル法の国でした。日本は尺貫法。その昔フランスのセンチ数を尺数に読み替える時に、表記不能分を端数調整で切り上げや切り捨てしました。後年に日本がメートル法を採用した時、話を振り出しに戻して大元のフランス式センチ数を使えば済んだことです。それをやらずに、丸めていた日本式尺数を新たな起点にして、今度はセンチ数へと正確に換算して往復させたので、昔丸めた時の切り上げや切り捨て分が反映してしまったのです。

――で、その話とはまた別に、フランス由来の号数と日本生まれの号数があるわけですか?

当時のフランスサイズは、大きい方が120号まででした。そこに日本で、150号、200号、300号、500号というサイズ呼称を加えています。そこにも問題があります。

――それの、どこが問題なのですか?

100号の面積を100とすると、150号は196、200号は238、300号は301、500号は392となります。

――300号以外は、誤差どころの違いではないですね?

150号は200号と呼ぶべきです。200号は正しくは240号、500号は400号にすぎません。もっと後に加えられた、真に150号相当の木枠は、150号の呼称が使われてしまっていたので、120号との間を取った130号の呼称がつけられています。フランスでは本来あった比例関係が、日本ではガタガタです。

――なぜ、そんなことになっているのですか?

推測にすぎませんが、日本で号数の呼称を追加した当時の関係者は、数字が面積に比例していることを知らなかった可能性があります。知っていたら、わざわざ外したりせずに、法則に従おうとするはずですから。

――食肉方式の価格決めでは、当然そのことも問題になりそうですよね?

130号、150号、200号は、買う側が大きく得します。500号は逆に、詐欺まがいとなって損します。日本産の食肉方式の計り売りは、日本産の呼称サイズの部分でおかしくなるので、補正が必要です。

――号数についてはわかりましたが、食肉方式自体の良し悪しはどうでしょう?

良い面と悪い面があります。良い面は、2倍の面積なら2倍の価格というわかりやすさ。悪い面は、絵の出来ばえが関係しない点です。小品『モナリザ』より大きいダ・ヴィンチの絵はいくつもありますが、『モナリザ』より高いのはおかしいので、いきなり成り立っていません。

――『モナリザ』は何号なのですか?

面積はF20号にほぼ相当し、タテヨコ長さまで含めるとM25号が一番近いでしょう。ただし、ダ・ヴィンチの時代はキャンバスではなく木の板が使われ、『モナリザ』はポプラの一枚板に描かれています。布も木枠も存在しません。

――昨日のオークションで最高落札額を記録したピカソも、面積と値段は比例していませんね?

ヨーロッパでは、同じような内容なら小品よりも大作が高くなる、当たり前の扱いです。肉は同じ味なら同じ値段ですが、絵の号いくら方式の欠点は、同一画家内のうまいまずいが変数にないことです。

――絵の出来ばえを重視しない方式が、日本でなぜ続いてきたのですか?

本来は画商が絵を賞味して、出来ばえで決めるのが妥当です。なのに計り売り方式をとったのは、売る側が出来ばえを見分けていなかったからではと、私は思っています。質を見分けていれば、量を二の次に置く値付けへと、とっくに移行したはずだから。売る側が絵を見分けないから内容重視に移れなかった、という疑惑です。

――もし画家一人の出来ばえが全作品いっしょならば、見分けようがありませんが?

それも疑惑としてあるのです。絵が冒険していなければ、失敗も起きないから、どの絵も安定して金太郎アメ的に均質です。一人の絵は、どれも可もなく不可もなく平均点ぞろい。それなら熟練した職人さんが作るアメと同じで、グラム売りで事足りるわけで。

――それって、何か本当にありそうな話ですよね?

例えば、ピカソの絵がいかに冒険しているかは、ピカソ秘蔵作品でよく理解できます。

――秘蔵といえば、とびきりの傑作でしたか?

逆です。秘蔵作品とは、売れ残りです。ヨーロッパの画商やアメリカの美術館に売るブローカーたちから選ばれずに、最後までピカソの家に残った絵です。その秘蔵作品展を見ると、いつものあの造形なのに、画圧がさっぱり襲ってこなくて、空疎感が強くなっています。要は、がっかり展覧会。

――ピカソに、ひどい絵があるのはなぜですか?

常に冒険していると、限界を突き破って飛躍した会心作もある代わりに、集中力が途切れるなどして気が抜けて、不発に終わったショボい作も生じるのです。同一画家の作なので、落差が目につきます。

――ピカソの場合も、1号いくらの食肉方式は機能しないわけですね?

欧米の画商たちは、ピカソなら何でもいいとは考えず、画圧の高い、観客がブッ飛ぶ絵だけを手に入れようと、けんめいだったことがうかがえます。ピカソといえど、すごい絵だけがすごくて、ダメな絵はダメという構え方です。彼らは、すごいものだけを選び取る態度で芸術に参加しており、号いくらで処理できる雰囲気とは違います。

――でもまあ、すごい絵をいくら求めても、美術館の予算にも限りはあるでしょうし?

ニューヨーク近代美術館は、ピカソの『アビニョンの娘たち』(当時は哲学的売春婦たち)を買う時、資金が足りずにドガなど印象派の名作を売却しています。冒険して上を目指す画家に対し、美術館も冒険して上を目指したようです。

――号いくらの食肉方式に、絵の冒険というものが関係しているのは新発見ですね?

危なげのない安定した名人芸というものが、芸術とは逆向きだという、私たちが想像しにくい道理も、ついでに発見しておけば十分です。

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