現代美術とCGアートの謎と疑問に答えるQ&A もくじ
電子美術館のQ&A

23 白鳥の湖と現代絵画

二十一世紀国際地方都市美術文化創造育成活性化研究会
2008/2/3

――レンブラントの『夜警』は、実は昼の絵だそうですね?

何年も前にわかったのですが、メンテで絵の保護ニスを洗い落とすと、変色したニスとともにススも落ちて、絵がかなり明るくなったそうです。スス付着は、絵が庁舎の暖炉付近に飾られていたせいとの説もあります。しかし明るく戻ったとしても、レンブラント(1606〜1669)の絵は、どれもこれも21世紀の画家ならやらないほど暗いものです。

――近年は、暗いもの嫌いの人が増えたという話でしたね?

明度の低い絵や、影のある絵をいやがるアートギャラリーを散見します。そこでは、レンブラントの絵も展示が不許可となることでしょう。一昔前の日本で「ネアカ対ネクラ」と称して、暗い人物や事物を排斥する運動が流行しました。暗く悲しい作品の敬遠は、今の美術界で折々に見かけます。アートも、明るく陽気に行きましょうと。

――映画でも、原作の悲劇的結末を避けた作品が時々あったそうですが?

画家ルーベンス(1577〜1640)の絵をめぐる『フランダースの犬』は、海外でハッピーエンドに改変されたと伝わります。似たケースで浮かぶのは、バレエ『白鳥の湖』です。以前ラジオ番組がこの話題を取り上げたので、改変の動機がずっと気になっていました。といっても今も由緒ある公演では主人公たちが亡くなり、主流はこちらです。が、元の悲しい結末をバッドエンドと呼んで嫌うファンも広がっています。サッド(悲しい)ではなく、バッド(悪い)です。

――白鳥の湖の本来のストーリーは、どんなふうだったのですか?

ムゼウスの童話『失われたベール』を元に、舞台バレエの基本構想を練ったのは音楽担当のチャイコフスキー(1840〜1893)です。振り付けを考える台本の初版(1876)では、オデットを白鳥に変えた悪役は、オデットの継母たる魔女です。まず王子は夜の湖畔でオデットと知り合います。オデットは魔法をかけられた王女で、昼は白鳥の姿に変えられ、夜だけ人間の姿に戻れます。

――その魔法を、2人が解こうとするわけですね?

明日の舞踏会で王子がオデットを妻に選べば、魔法が解けてオデットは本来の人間になれます。ところが翌日の会場で、王子はオディールというニセモノと契りを結びます。失敗を謝罪しようと湖に走った王子は本物のオデットに会い、2人は氾濫した湖にのまれ、フクロウに化けた魔女が飛び去って終わります。

――昔は、森のフクロウが出てきたのですか?

この初演(1877)から18年後に再演(1895)されたプティパ監修版(助手はイワノフ)では、継母ではなく悪魔に設定変更されます。ニセモノを選んだ王子はやはり湖に走ってオデットと再会し、今度はともに湖に身を投げ、事態を受けてフクロウに化けた悪魔も落ちます。その後フクロウは廃止され、悪魔役のダンサーが通しています。

――その悪魔は、最後にどうなるのですか?

再演以降は常に悪魔も滅亡します。身投げした2人の消えぬ愛の力で、悪魔が倒れる解釈です。そして最後の最後に、王子とオデットの2人は天国で結ばれます。これが今日まで続く『白鳥の湖』の基本形です。

――その悲劇のストーリーが、その後どう改変されたのですか?

悪魔が倒れた後で、2人が生き返る筋書きが作られました。これは道理が変で、洪水であれ身投げであれ、愛の証の死を受けて起きる悪魔滅亡なので、2人の死までさかのぼってリセットしては、物ごとの順序に無理があります。

――それでも2人は、いったんは亡くなるわけですね?

問題の、亡くならないバージョンが現れました。ニセモノを選んだ王子は、湖に走って悪魔とつかみ合いのケンカを始めます。そして、王子は悪魔を投げ飛ばしてダメージを与え、翼を引きちぎるなどしてやっつけ、オデットと現世で結ばれるハッピーエンドです。

――誰が何がやりたくて、悲劇をハッピーエンドに変えたのですか?

第二次世界大戦直前の1937年に、ソ連政府が創作表現をいっせい指導して以来とされます。つまり社会主義国の統制に端を発した、よくあるポピュリズム(大衆迎合)です。その年は、ドイツ軍がスペインの町を空爆した『ゲルニカ』の年です。例の絵がかかれた激動の年に、ドイツとソ連は一触即発でした。ヒトラーとスターリンは不可侵条約を結んでいて、しかしドイツは違反します。ソ連から余裕が消えます。

――そんな白鳥の湖のハッピーエンドが、今も続いているのはどうしてですか?

背景の分析として、現代人の精神構造を読む論説を聞きました。「忍耐力の低下」「権利意識の高まり」「寛容の欠如」「心的余裕の喪失」「潜在的うつ症の増加」「結婚願望」などです。「昔は政治的介入、今は私的介入」といえそうです。要するに刺激を薄めようとしており、現代ギャラリーの「暗い美術お断り」とも一応符合します。ただ、悲劇アートを回避する背景が、人々が幸福な社会なのか薄幸な社会なのかも、定説はないのですが。

――ハッピーエンドに改変すると、どこかにしわ寄せが起きませんか?

まずは音楽で起きます。「ポロロン・ポロリロ」とハープが奏でる最後は、湖に沈みゆく2人の遺体と、天に昇りゆく2人の魂の、両義の擬態音として功を奏します。ここを日常に戻れた喜びの場面に変えると、とびきりの美音がカジュアルな地上で鳴って派手なミスマッチが起きます。2人の感情も単なるバンザイで、深い余韻が出せません。尊い天上の調べを用意したはずのチャイコフスキーも空振りして。

――それにしても、人間が悪魔と格闘して勝つのはおかしいですよね?

実はそれが、ハッピーエンド型の最大の難点です。すなわち悪魔というものは人間の心に宿ります。ざっと言えば、人間の善意が神の形をとり、悪意が悪魔の形をとります。悪魔という生物が独立して生息しないのは、文学を読み解くイロハです。誰かのネガティブな心理が悪魔として動くのだから、人間が悪魔に直接手を下しては非文学的で非芸術的です。王子が柔道や空手の黒帯だったり、刀剣や弓を所持していても、悪魔を死傷させてはおかしいのです。

――それなら、白鳥の湖に出てくる悪魔は誰の心理なのですか?

ヒロインのオデットです。彼女は、思春期の女性が一度は考えるように、男性に不変の愛を求めます。現代でも、若い新婚女性はよくこう言います。「この愛は生涯冷めません、私たちに限って絶対に」。オデットのこの理想追求が、「男性に浅い気持ちで選んで欲しくない」願望となり、これが王子との間を引き裂く悪魔の正体でしょう。

――そうすると、悪魔のトリックに王子が引っかかった意味は何ですか?

オデットが用意した試練を、王子は越えられなかったのです。悪魔の娘であるニセモノ役オディールが、他人なのかオデットの一面なのかは重要でないでしょう。再演(1895)以降、両者を同一のバレリーナが踊る慣習があり、姿は似て性格は似ていません。オデットと違うキャラのオディールとの結婚を正式に誓った瞬間に、王子の思いは裏切りへと反転します。

――仕組まれた陰謀にやられた哀れな王子を、裏切りとまでいえるのですか?

オディールを選んではいけない理由はいくつもあります。(1)オデットが父に連れられて来るわけがない。(2)オデット本人なのかをすぐには確信できなかった。(3)白い服だったはずなのに黒い。(4)なぜか性格が冷淡。(5)まだ夜でないからオデットは鳥の姿なはず。(6)第一に名前は似ているが異なる。しかし結局、王子は前夜の約束を破ってしまいます。

――事前に細かく打ち合わせしていれば、選び間違いが防げたと思いますが?

それをほのめかすくだりが、初演と再演の台本にあります。初恋で舞い上がりぎみの王子の自信満々を、悪魔の力を知っているオデットは心配するのです。しかし当然ながら、自分を選ぶ際の注意点を逐一念押しする場をつくらないまま、2人は夜の湖でいったん別れます。

――王子とオデットの互いの思いに、強弱や温度差はあったのですか?

単純にいえば、軽率な相手は見送りたい女性の心理ブレーキとして悪魔が作用しています。オデットの不安は、女性が普遍的に持つ心理ですが、その価値観に照らせば、王子は夫として不服なのです。

――それで、ハッピーエンドがまずいわけですか?

王子が悪魔を叩きのめしてオデットと結婚しては、事件を腕力で解決するバイオレンス・アクション入りのボーイ・ミーツ・ザ・ガール、いわゆるハリウッド映画スタイルに終わります。反省や見直しが不十分なまま、武力で現状を変更しているだけ。このまま現世で結ばれても、妥協的婚姻にとどまって文学色は消えるでしょう。この演目のキモは、女性が男性の不徹底な行動を知り、対等に主張する点です。王子は恋人が試した花婿テストに不合格なのです。

――それなら、身投げの後に天国で結ばれるのはなぜですか?

身を投げたオデットを王子は追います。その本気度で、王子はあの世で合格するのです。と同時に、現世で結婚できずに終わった事態も強調されています。現実にはあの世で結ばれることはありえないので、観客のカタルシスの均衡は図られ、悲劇はやわらげてあります。プティパとイワノフの振付は、言ってみればハッピーエンドなのです。

――心中までしたから、相思相愛だとはいえませんか?

身投げは破談の象徴です。2人が「さいならー」と別れては舞台にならないので、ともに亡くなることで現世で結ばれない運命を明示します。そして、あの世で二人が初めて理解し合うという大逆転。これは子どもの童話にみえて、大人向けの話です。ところがこれでもつらくて耐えきれず、のがれたい大人が増えている現実があるわけです。

――すると天の場面は、絶対に必要なわけですね?

昇天がないと、そもそも音楽に合いません。バレエの基盤は音楽であり、終曲の転調と神々しいハープ、終端の長調がこの筋書きに正確に合い、それらしい舞台セットがなくても観客は天をイメージします。この現世の絶望と、来世の希望を切り換える展開が、世界一の名声となったのでしょう。

――天の場面は、いつからあったのですか?

プティパによる再演(1895)で、すでに演出があったそうです。今では映写機による投影も増えましたが、生演技もあります。舞台の高い位置で2人が手を取り合うとか、湖底で2人が対面する場合も。幕が降りた後に少し幕があいて、彫刻のように動かない2人を一瞬見せる演出もありました。抱擁なしに仲が良さそうに見せることで、恋愛の美しさと壊れやすさの深みを出す締めくくりになっています。

――白鳥の湖を文学的にみると、芸術性はどこにあるのでしょうか?

いいところまでいった男女の波長が合わず、いっしょになれない微妙な関係を、うまく表現している点が第一です。オデットとオディールの立場や人格の演じ分けと、双方の魅力の両立が出来映えを左右します。だから踊りの技術だけでは足りず、シビアに見ると成功公演は多くありません。この理想の高さは、絵画が歴史に残る要件を思い起こさせます。

――そうした微妙な感情表現は、絵画でも可能ですか?

喜怒哀楽が複雑に混じった表現は、美術では難題です。喜びは明るい色、悲しみは暗い色で描くのが絵の常ですが、それだけなら文学性は生まれません。世の絵画を点検して気づかされるのは、「泣き笑い」を1枚に込める表現でさえ、なかなかモノにできない点です。現世で破局となり、あの世で結ばれるという引き裂かれた状態を、いっぺんに表現できている絵画は少ないでしょう。

――舞台芸と比べ絵画は静止しているので、表現に限界がありますよね?

音楽も映画も、演劇やバレエも、「時間の芸術」との言い方がされますが、対する絵画や写真に時間変化はなく、一画面のみで一瞬に完結します。そこでの芸術とは、美しい光景を再現することではなく、ひとつきりの画像に複数の感情を同居させることだと考えます。単にうれしいでも、単に悲しいでもない、何ともいえない微妙な心理が描けたか。これは高度なバレエと理想が似ています。

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